当時、愛知県やその周辺は、繊維業で栄えていた。古くは江戸時代、もっと昔からかもしれない。もともと製糸や紡績の盛んな地域ではあったが、織機の発明が産業を活発化させた。この地域からうまれ、今や世界でもそれなりに名の通っている自動車会社も、もとは自動織機の発明や開発から始まっている。
明治という時代に入ってから、日本が製糸、紡績、などといった分野に力を入れ始めたのは知られているところだか、それはこの地方でも例外ではない。繭を糸にする製糸や木綿を糸にする紡績、糸を布に仕立てていく織物など、繊維産業は急激に成長し、明治二十年代の半ばには、愛知県は綿織物の生産で日本一にもなっているはずだ。富国のためにか、工場で過酷に働かされた女工の話などを題材にした映画や小説などもいくつかある。
「織姫の碑というものの存在を聞いた事があるかね?」
「いいえ」
「尾張の方にある。一宮だったかな。亡くなった女工を供養する碑だよ」
「労働がキツくて死んだんですか?」
「いいや、火事だよ。夜半だったか未明だったかに火事が起きてね」
「寝ていて気付かなかったんですか?」
「いや、女工たちは気付いて起きた。宿舎から逃げようとした。だが逃げられなくってね」
「なぜ?」
「出入り口に鍵が掛けられていたんだ」
厳しい労働に耐え切れずに逃げ出そうとする女工を閉じ込めておくために、宿舎には鉄の柵が巡らされ、鍵が掛けられていた。燃え盛る炎にのって、女工たちの泣き叫ぶ声が辺り一帯に響いたのだという。
「鍵を外す人はいなかったんですか?」
「女工の避難よりも工場への延焼の防止やおエライさんの避難を優先させていたんじゃないかという話を聞いた事があるよ。まぁもっとも、これは単なる噂だ。勝手な憶測でしかない。時間が時間だっただけに火事に気付くのが遅くてすでに間に合わない状態だったとも聞くし、女工を助けるために精一杯の努力はしたんだという反論もある。火災の警報装置が設置されるようになった今の時代ですら深夜の火事で命を落とす人はいるんだ。真偽はわからん」
ゆっくりと瞬く。
「明治の話だよ。戦前の話だ」
さすがに言葉を失う瑠駆真を前に、栄一郎は笑みを浮かべる。
「早苗さんが働いていたのは戦後だ。戦争が終わって、混乱はしていたが、それでも、日本はこれから再生するんだとみんなが必死になっていた時だった」
戦前にピークを迎えた繊維産業は、戦中に衰退はしたが、戦後、再び盛り返した。朝鮮戦争やガチャ万のもたらす景気によって回復していった。増産に伴い労働力が不足し、愛知県へは全国から若い労働力が集められた。特に中学を卒業したばかりの貧しい農村の少女などが、中学校の先生の勧めなどでワケもわからず愛知県へ集められた。工場で働くという事がどういう事なのかもわからないまま、ただ新しい世界への好奇心と、貧しい家を支えるのだという正義感を胸に、多くの少女がこの地にやってきた。人々は彼女たちを織姫と呼んだ。早苗も、そう呼ばれる一人であった。
当時の栄一郎は二十歳前後で、若さを持て余していた。加えて、事あるごとに空襲で命を落とした弟を嘆く父の言動にも苛立ちを募らせていた。
「ここにお前の弟がいたなら」
まるで、栄一郎が死ねばよかったのにと言わんばかり。賢く好奇心旺盛であるがゆえに広い世界を求めようとする栄一郎は、父にとっては放蕩息子にしか見えず、従順だった弟ばかりが記憶の中で美化され続ける。弟と比較されながら小言を浴びせられて過ごす毎日は苦痛で仕方がなかった。次男や三男で家業などとは無縁な暮らしをしている同級生の素行は、栄一郎には羨ましかった。
「俺は東京へ行くぜ。東京で俳優になるんだ」
「私、東京の大学へ行くの。これからは親の小言に耳をかす必要もないわ。大学出て東京で働くの。お金が入ったらきっと好きなだけお洋服も買える」
急激な勢いで復興していると聞かされる東京という大都会に未来と希望を託し、友達は次々と地元を去っていく。唐渓の同級生の中には、栄一郎と同じように地元の大学へ進学した者もたくさんいた。だが血気盛んな栄一郎は、自分の置かれた状況に不満しか感じなかった。そんな彼にとって、九州からやってきた中卒や高卒の工員など、田舎臭い世間知らずにしか見えなかった。
ったく、俺はこんなヤツらと汗まみれになって働くために大学へ進学したんじゃないんだぞ。
親に連れられて工場へ顔を出しても、不貞腐れた態度で社員を見下す。
「お前、今ぶつかっただろっ。俺を誰だと思ってんだ。次期社長だぞっ」
明らかに年上と思われる相手に対しても、平気で大柄な口を利いた。父親に咎められてもお構いなし。
「気に入らないんだったら、さっさと追い出せばいいだろう? 俺はこんなド田舎でこんな田舎あがりの奴らと一緒に働きたくはないんだよ。俺は東京へ行きたいんだ。こんな田舎で終わりたくはないんだよ」
「だったらお前の代で会社をもっと大きくすればいいだろう。東京へでもどこへでも出ていけばいい。頑張れば取引はいくらでも広げられる」
「今がいいんだよ。今すぐに出ていきたいんだよっ」
そう叫びながら実際には出ていく勇気もない自分に苛立ちも感じていた。そして、そんな自分の姿を、見下しているはずの社員に嗤われているような気がして、さらに苛立ちは募った。
「お前、何見てるんだっ!」
酒を飲んでは深夜の寮へと迷い込み、残業でヘトヘトになった社員に絡む。
「なんだその目つきは」
「いや、僕は何も」
「何も? だったらどうしてこんな時間にフラフラ出てきた? 俺を見てただろうっ」
「そんな、僕はただ寄宿係りの人に呼ばれて」
「ふざけんなっ、そんな言い訳が通用するか」
「ちょっと、離してください。僕、本当に行かなくちゃ」
「寄宿係りぃ? 俺よりそいつの方が大事なのかよぉ」
「そんな」
「俺を誰だと思ってる? 俺の親父はココの社長だぞ。俺に歯向かうってんなら、お前なんかあっという間にクビにしてやれるんだからな」
「そんな」
九州から出てきたまだ十代の純朴な少年は、栄一郎に肩を掴まれ、ただオロオロと瞳を動かし、されるがままに身をフラフラと左右に揺らしている。
「オラオラ、どっちなんだよ?」
「どっちって?」
「だからぁ、俺と寄宿係りとどっちが大事なんだって言ってんだよぉ」
「それは」
「答え次第によっちゃぁ、お前なんて今日限りで辞めてもらうぜぇ」
酒臭い息に眉を潜めながら、それでも逃げる事はできない。
「どっちなんだよぉ」
「も、もちろん、栄一郎様の方が、だ、大事」
「だよなぁ」
栄一郎様は、深夜の闇夜に迷惑な大声をあげて笑う。その声は簡素な板張りの壁を通して寮の中の者たちにも聞こえていたはずだ。だが誰一人、出て来る者はいない。ただどこの部屋も、窓が少しだけ開いている。聞き耳を立てながら、覗き見しながら、ただ黙って傍観するのみ。
「だったらよぉ、俺の酒に付き合ってくれるよなぁ」
「え? それはどういう」
「どういうもこういうもねぇだろ。お前、今言ったじゃねぇか。俺様が大事だって」
「も、もももちろん」
「だったら俺様の酒に付き合うのは当然だろう」
「どうしてそういう話に。だいたい僕はまだ未成年で」
「未成も覚醒もねぇだろ」
「ちょ、ちょっと、やめてください」
「うっせぇ。付き合うのか付き合わねぇのか、どっちなっ」
揉み合う二人は、飛び込んできた橙色の物体に目を丸くした。それは一つではなく、二つ目、三つ目と、次々に二人の間やら頭上やらを飛翔し、一つは栄一郎の頭部を直撃した。
「ぐわっ」
蜜柑だった。季節外れの甘い汁が額に滴る。
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